奥州平泉観光新聞

NEWS

F第4番大森観音 流れ流れて玉里へ
2019/08/19

▲米里から「鹿又堰」を流れてきた観音様を祭った大森観音堂。羽ばたく翼のような屋根の反りが印象的だ。伝説を裏付けるように、鹿又五郎右衛門らの棟札も残る

寄り道巡礼記8
 第4番札所の大森観音は、岩谷堂中心部から県道8号線(盛街道)を米里方面へ向かう途中にあります。えさし藤原の郷へ通じる十字路を抜け、国宝「中尊寺経」の写経所とされる益沢院擬定地や第33番札所の玉崎観音(玉崎駒形神社)の森を横目に東進。しばらくすると、左手に「大森観音」の看板が見えてきます。看板に従って左折し、緩やかな坂を上っていくと、大森観音堂のこんもりとした森が見えてきます。
 「ここの観音様は、平安時代初期に鎮守府将軍・坂上田村麻呂が米里の蝦夷のリーダーだった人首丸を大森山で討ち、その供養のために祭られたという伝説があります」と案内役のえさし郷土文化館の野坂晃平さん。
 「その話なら聞いたことがあります。米里と住田町の境にある大森山の観音堂跡も取材で行きました。すごい山の奥で、すごく大きな岩がいくつも重なった不思議な感じの場所でしたよ」と応えると、野坂さんは「そうでしょう。第1番の国見山の大悲閣跡でも言いましたが、山の大きな岩は神や仏が天から降りて来る場所『磐坐(いわくら)』です。古い神社やお寺はそうした所やその近くに建物を建てることが多いのです。大森山の観音堂跡も磐坐でしょう」と声を弾ませました。
 そこで「確かに。大きくて平らな岩がせり出しているような、ちょうど舞台のような感じで斜面にあって、神様も降りて来やすそうでした」と思い出すと、にっこり笑った野坂さんが「いい所に気づきましたね。おそらくあの岩の感じですと、岩の上に京都の清水寺のようないわゆる舞台造のお堂を建ててたとも考えられます。しかも、あの清水寺を建てたのも田村麻呂なんです」と共通点を教えてくれました。
 小さな水路を渡り入り口の石の鳥居をくぐると、すぐ脇に穴の空いた大きな石が二つ並んでいて、水をたたえていました。どうやら手水鉢のようです。説明板によると、かつての鳥居の礎石だったとのこと。「(手水鉢として)第二の役目を果たすことになりました」と書かれていました。地域の人たちの見事な機転だと感心しました。
 石段を上った先にある大きく立派な観音堂に参拝。これからの旅の安全と楽しい発見があるよう願いました。と、同時に一つの疑問が脳裏に浮かびました。「野坂さん。なぜ大森観音はここにあるのでしょうか?」
 待ってましたとばかりに、野坂さんは「諸説ありますが、江戸時代に鳥居の前の細い水路『鹿又堰(かのまたぜき)』を造成しているとき、この辺りで工事が難航し困っていると水源の大森山の観音様が流れに乗ってやってきたそうで、その御利益で無事に開削できたといいます。それに感謝した人たちがお堂を建てて祭ったと伝えられています。命の水の守り神といったところでしょうか」と説明してくれました。
 「えっ!あの細い水路が観音様伝説の証拠なんですね!」と驚くと、「鹿又堰は昔の人の汗の結晶で、非常に大切なものです。もう一つ証拠として観音堂には工事責任者の鹿又五郎右衛門と藩主・伊達綱村との連名の棟札が残っているので、あながち伝説もまったくの虚構ではないかもしれません」と野坂さんは目を細めていました。

<< ニュースINDEX >>
page : 1 2 3 4 5 6 7
 [ 次ページ ]

 


平泉町へのアクセス
平泉町へのアクセス English Korean Chinese 奥州平泉の天気情報
奥州平泉グルメ情報
奥州平泉観光情報
奥州平泉宿泊情報
奥州平泉土産情報

ダイジェスト版の閲覧はこちら 携帯版HPはこちら!
最新NewsIndex

特集記事Index





岩手県広域情報